tener’s diary

てねーるのブログ記事です

【ディズニー映画感想企画第14弾】『ピーター・パン』感想~子供と大人の折衷的作品~

 ディズニー映画感想企画第14弾は『ピーター・パン』について語っていこうと思います。第一期黄金期の3作目の映画であり、その前の2作に負けず劣らず知名度の非常に高い作品でしょう。
 そんな『ピーター・パン』について語っていきたいと思います。

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【基本情報】

最後のナイン・オールドメン全員監督作品

 『ピーター・パン』は1953年にディズニー14作目の長編アニメーション映画として公開されました。前々作『シンデレラ』や前作『ふしぎの国のアリス』同様、制作の構想自体は第二次世界大戦前からあったのですが、実際に制作が行われたのは戦後になってからです。原作は、イギリスの劇作家ジェームズ・マシュー・バリーによる同タイトルの戯曲です。

 この映画『ピーター・パン』は、ナイン・オールドメンが作画監督して全員関わった最後の作品として知られています。ナイン・オールドメンとはディズニー・スタジオの黎明期から働いてきた9人の大御所アニメーターのことです。第一期黄金期の頃から「ナイン・オールドメン」という呼称が使われるようになり、長年ずっと数々のディズニー作品の作画に携わって来た人たちとして尊敬されるようになります。『ピーター・パン』はそんなナイン・オールドメン全員が作画監督として務めた最後の作品になります。*1

 ナイン・オールドメン全員が監督を務めた作品はこれが最後であるものの、この作品以降もこの9人はそれぞれが別々のディズニーのアニメーション制作に関わり続け、第一期黄金期のディズニーアニメの繁栄を支える存在になっていた訳です。


現在は賛否両論な作品

 映画『ピーター・パン』は、公開直後はかなりの大ヒット作品となり、評論家からも絶賛されまくるなど、『シンデレラ』に続く成功作となりました。ウォルト・ディズニー自身もこの作品の出来には大いに満足していたそうです。前作『ふしぎの国のアリス』が興行的に失敗したのに対し、『ピーター・パン』は興行成績の面でも文句なしの大ヒットとなり、『シンデレラ』で復活したディズニー第一期黄金期はまだまだ継続中であることをディズニーは証明したわけです。

 このように公開当時こそ好評を博し否定的な意見はほとんど出なかった『ピーター・パン』ですが、現在は色々と批判的な意見も見られるようになってしまいました。特に、インディアンに対する描写から来る人種差別がアメリカでは現在でも強く指摘されています。また、フェミニズム的な観点からの『ピーター・パン』批判も良く聞きます。

 これらの批判については、自分も色々と思うところがあるので後で個人的な見解を述べようと思います。





【個人的感想】

総論

 まず、結論から言いますと、好きな人には申し訳ないのですが、僕は今でも『ピーター・パン』は好きじゃないです。というか、かなり嫌いなほうの作品です。しかし、その一方で、『ピーター・パン』を好きだという人たちの意見にもかなり理解できる面はあるんですよね。「好きな人が好きになる理由は分からなくもないけど、僕は好きになれないし、むしろ嫌いな作品」というのが僕の『ピーター・パン』に対する感想です。

 以下、僕がなんでそういう感想を抱いているのか詳述します。


登場人物に嫌な奴が多すぎる

 これは映画『ピーター・パン』の致命的な難点だと思うんですよね。はっきり言って、ウェンディ以外の登場人物で好感の持てるキャラがこの作品にはほとんどいません。とは言え、それは作品の基本コンセプトの内容ゆえにある程度は仕方のないことでもあります。つまり、登場人物たちの多くが悪い意味で「子供っぽい」のです。子供っぽい無邪気な残虐さや意地悪さが作品の至る所で現れています。

ピーター・パン

 主人公のピーター・パンからしてそうです。かなりガキっぽくてかなり残虐で、すぐ調子に乗る軽薄な人間です。はっきり言って、僕は初めて見た時からピーター・パンを理想のヒーローとは全く思えませんでした。特に、時折見せる彼の残虐さはちょっとドン引きしてしまいます。

 そもそも、フック船長の腕を切り落としてワニに食べさせるという行為からして、ちょっと可愛げな子供の仕返しのレベルを越してます。作品内でこのシーンは直接描かれてはいないので、どういう経緯でピーター・パンがフック船長の腕を切ったのかは分かりませんが、物語の善玉サイドの主人公がやることじゃないと思っちゃいますね……。しかも、ピーター・パンはその時のフック船長の慌てぶりを馬鹿にして、人魚たちに笑い話として聞かせています。うーん、涼しい顔してクズい。

 ピーター・パンのくそ野郎っぷりはタイガー・リリーを助けるシーンでも顕著です。確かにフック船長はひどい悪人ですが、だからと言って、面白半分にスミーにフック船長を殺させようとして喜々としているピーター・パンは鬼畜すぎます。そのうえ、ピーター・パンは、半べそかきながら怖がるフック船長をあざ笑うかのような笑顔で彼をワニに食べさせます。あまりの残酷さにウェンディも"NO!"と言ってます。やっている行為が悪役のそれです。しかも、ピーターのやつったらワニに襲われるフック船長を嘲笑うのに夢中で、肝心の目的であるタイガー・リリー救出をウェンディに指摘されるまで忘れています。彼にとっては「フックを苛める楽しさ>タイガー・リリー救出」なんですよね。もう、このシーンだけでもピーター・パンに対する嫌悪感は最高潮に達します。

 終盤でのフック船長との闘いでも、ピーター・パンのクソガキっぷりが出ています。フック船長に勝ったピーター・パンは調子に乗って「俺はタコだと言え」とか言ってフック船長をからかいます。そりゃあ、フック船長がこれまでしてきたことを思えばそれぐらいの仕返しをしたくなる気持ちも分からなくはないですが、ピーター・パンや子供たちの表情は単純に仕返しできた嬉しさ以上の子供特有の優越感を感じるので、彼らに幻滅するんですよね。簡単に言えば、「ピーターたち、調子に乗りすぎ」なんです。

 それだけでなく、ピーター・パンはウェンディに対しても冷たいです。人魚たちにウェンディが虐められるシーンでは、ウェンディが本気で嫌がってるにもかかわらず、ピーター・パンはゲラゲラ笑い転げてます。挙句の果てには、逆に人魚たちのほうを庇います。くそ野郎です。というか、ここの人魚たちも嫌な奴らです。ピーター・パンに色目を使う一方で、邪魔な女であるウェンディを蹴落とすために水をかけて彼女を海に引きずり込もうとします。そりゃウェンディが頭に来るのも当然です。

ティンカー・ベル

 なんかその見た目からか良い妖精みたいに思われがちなティンカー・ベルですが、作中での行動はピーター・パン以上にひどいです。だって、初っ端から嫉妬に狂ってウェンディを殺そうとしますからね。しかも、そのことに対する反省は最後まで見られないです。

 その後も、懲りずにフック船長のウェンディ誘拐に協力するなど、やっていることが完全に悪役の所業です。もちろん、愛するピーター・パンを命がけで助けるといった見せ場もあるんですが、それはあくまでもピーターに対する愛情であって、ティンカー・ベルのウェンディに対する嫉妬心が解決したっぽいシーンは最後までないんです。最後の最後で彼女がウェンディたちに謝罪するシーンでもあれば印象もだいぶ変わったのかも知れませんがそういうシーンは実際にはないので、「なんで殺人未遂のくそ野郎が許されてるの?」というモヤモヤした感情が最後まで残ってしまいます。

ジョンやマイケルやロストボーイ

 年齢相応と言えば年齢相応なんですが、こいつらもやっぱりガキっぽいです。例えばジョンとマイケル。何の恨みもない会ったことないインディアンを「狩りに行く」ことに何の良心の呵責も抱いていません。ロストボーイズたちは「インディアン狩り」がただのゲームだと知っていたので問題ないですが、ジョンとマイケルは途中までゲームじゃなくて本気の狩りだと思ったままノリノリでインディアン狩りをします。子供とは言えちょっと倫理観を疑う。しかも、インディアンのことを「頭良くない」と言ってますからね、彼。子供故の無邪気な偏見なんでしょうけど、インディアンに対するものすごい差別意識の塊だと思います。

 ロストボーイズたちのほうはそこまで嫌悪感のあるタイプではないんですが、すぐ喧嘩して落ち着きがない辺り、ちょっとウザったいタイプの子供たちではあります。そう言う意味で、彼らのことも僕はそこまで好きにはなれません。

インディアンたち

 本作品が人種差別的だと言われている点に通じる面でもあるんですが、インディアンたちもウェンディにやたら冷たいです。わりと性差別主義者な集団としてインディアンが描かれてるんですよね。ピーター・パンやロストボーイズ、ジョンやマイケルなどの男の子は宴に参加させる一方で、ウェンディに対しては「女は薪を運んでろ」と言って宴からハブります。ものすごい女性差別です。


ウェンディの受難

 このようにネバーランドの住人たちが少し嫌な奴ら―悪い意味でガキっぽい奴ら―として描かれている一方で、ウェンディだけは理性的な面もあるキャラクターとして描かれています。つまり、少々「大人っぽい」んです。この点は「女性のウェンディにだけ母親の役割を押し付けている」としてフェミニズム的な観点からの批判がなされることもありますが、それについては後で触れるとして、ともかく確かにウェンディは理性的な母親らしく描かれていてこの作品における唯一の「良心」に思えます。

 しかし、それ故なのかウェンディは憧れのネバーランドにおいてロクな目に会いません。ティンカー・ベルには殺されかけるし、人魚にもいじめられます。しかも、憧れの存在だったピーター・パンはウェンディのことなんて放っておいてタイガー・リリーとイチャイチャします。インディアンの宴でウェンディだけがハブられてるのに、ピーター・パンもジョンやマイケルもロストボーイズたちも、そんな彼女のことは無視して馬鹿騒ぎします。そりゃあ、ウェンディも嫌になってネバーランドを出て行きたくなるでしょう。

 でも、実はこのウェンディの特異性こそが恐らくこの作品のメインテーマに繋がっているんですよね。そして、それ故に僕は『ピーター・パン』が好きな人の気持ちも理解できなくはないです。つまり、『ピーター・パン』が描きたかったであろうテーマは確かに理解できるんです。


子供から大人へ

 『ピーター・パン』のテーマはある意味で非常に分かりやすくて、ようは「子供から大人への成長」を描いた物語なんですよね。で、しばしば言われるように恐らくこの映画の本当の主人公はピーター・パンじゃなくてウェンディなんですね。つまり「いつまでも子供でいたかったウェンディが大人になることを決意する物語」がこの映画『ピーター・パン』なんです。

 先ほど、作中の登場キャラの中では比較的大人びていると言ったウェンディですが、歳相応に子供らしい側面もあります。だからこそネバーランドに憧れを抱いていたのです。しかし、そんなウェンディは先述の通りネバーランドではロクな目に会いません。憧れのピーター・パンに雑に扱われ始め、インディアンの宴では完全に仲間外れにされたことでネバーランドへの憧れが彼女の中で消えるんですよね。

 そして、弟たちやロストボーイズに母親の存在の大切さを説き、一緒に帰宅しようと説得する訳です。つまり、ウェンディにとってピーター・パンたちネバーランドの住人は否定すべき存在であり、彼らと決別することでウェンディは大人へと成長することを決意する訳です。それまで「大人になりたくない。ずっと子供でいたい」と思っていたウェンディは、ネバーランドで子供の幼稚さに幻滅し、やっぱり大人にならなきゃいけないと思い直す。そういうウェンディの成長物語こそが『ピーター・パン』のテーマなんでしょう。

 「子供から大人まで全員が楽しめる」を基本理念としてきたディズニーにとって、「子供から大人への成長」を描いたこの物語は非常にディズニーらしいテーマであると言えると思います。しかも、この映画は「大人への成長」を描く一方で、「子供心」を完全否定してないんです。むしろ、どんな大人も子供時代を体験したことを肯定してるんです。それがはっきり分かるのはエンディングのシーンで、ウェンディたちの父親ジョージが「私も空飛ぶ船を見たことある」と話すシーンでしょう。物語の序盤で「子供心」を散々否定してきたジョージも、子供の象徴であるネバーランドの夢物語を過去に経験していたと分かるシーンです。ここはちょっと感傷的でグッと来る演出になっています。

 まさに「大人と子供の折衷」を描いた物語こそが『ピーター・パン』であり、だからこそ本作品は「非常にディズニーらしい」テーマだと言えます。それ故にこの作品が大好きな人も多いんでしょう。その点は僕も理解できます。しかし、それでもやっぱり自分には『ピーター・パン』は好きになれないです。作品内で最終的に完全否定はされず部分的に肯定されている「ネバーランドの住人の子供っぽさ」を僕個人は全く肯定できないからです。

 「大人への成長を描きつつも子供心を否定はしない」というコンセプトゆえか、中盤ではピーター・パンやインディアンたちにムカッと来ていたウェンディも、終盤ではネバーランドでの出来事を肯定的に捉え直すんですよね。家に帰ったウェンディはネバーランドでの経験を「楽しい出来事」として母親に話し、ピーター・パンに再び憧れの目を向けるのです。

 でも、先述した通り、僕にとってピーター・パンもネバーランドの住人も最後まで「ガキっぽくて嫌な奴ら」なままなんですよね。だから、そんな存在を肯定的に描くこの物語のテーマにはちっとも共感できないし賛同できないんです。ようは「なんでガキっぽいピーター・パンが理想的なヒーローみたいに描かれてるの?ティンカー・ベルなんか殺人未遂犯やん……。ちっとも肯定できない」ていう感想になっちゃうんですよね。だから僕はこの作品が今でも嫌いです。


その他批判点

人種差別問題

 上で述べた通り、『ピーター・パン』は人種差別や性差別の面で批判がなされることが多い作品でもあります。特に、インディアンの描写がステレオタイプ的だという批判はしばしば指摘されています。これに関しては、僕は【ディズニー映画感想企画第4弾】『ダンボ』感想~コスパの良い傑作~ - tener’s diaryの記事でも述べた通り、単にステレオタイプが描写されているというだけでは人種差別だとは言えないと考えています。その点で、『ダンボ』同様に『ピーター・パン』にも僕は擁護の余地があると思っています。しかし『ピーター・パン』は『ダンボ』と違って批判点にも多少納得できる部分はあるんですよね……。

 というのも、『ダンボ』で黒人のステレオタイプとして描かれていたカラスたちは普通に「イイやつ」として描かれていますが、『ピーター・パン』のインディアンたちはがっつり「野蛮人」として描写されています*2。しかも、ウェンディをハブる女性差別的な集団としても描かれてるんですよね。そういう意味ではインディアンに対するマイナスイメージを植え付けてる映画だと言われても多少納得はできなくないです。

 ただ、個人的な考えを言わせてもらうと、じゃあインディアンの社会を欠点のない純真無垢な存在として書くのもそれはそれで、インディアンを過度に理想化しすぎてると言えるでしょう。別に、インディアンに限らずどんな集団にも何かしら非難される点があるのが現実では普通のことです。『ピーター・パン』のインディアンたちはウェンディをハブるような女性差別的な集団ですが、決して完全なる「悪人」としては描かれていないです。ロストボーイズたちとの遊びに付き合ったり、タイガー・リリー救出したピーター・パンに感謝の意を示すなどの描写もあります。そういう意味では、『ピーター・パン』は「欠点もあればそうでない部分もある存在」としてインディアンを描いている映画だと言えなくもないんですよね。

 しかし、それでも『ピーター・パン』のインディアン描写が問題なのは、やっぱり「否定的な面もある子供サイド」の象徴たるネバーランドの中の一つの要素としてインディアンを描いちゃった点でしょう。つまり、はっきり言って「インディアンの社会は子供の集団みたいなもの」って言っちゃってるようなものなんですよね。「インディアンの文明社会は決して‟劣った子供”ではない」と主張したい人たちにとっては、『ピーター・パン』のこの点はインディアンに対する差別意識の表れだと見えるんでしょう。

 まあ、僕個人はそういう主張の持ち主ではないので*3、上記のような『ピーター・パン』のインディアン描写も問題だとは特に思わないです。とは言え、そこまで行くともう個人の政治的な思想信条や歴史観の違い(そういう主張の持ち主か否かの違い)に帰着するので、これ以上は論じません。「僕は『ピーター・パン』でのそういう描写を問題視するようなタイプの政治思想や歴史観の持ち主ではない」ということだけを記しておきます。

性差別問題

 『ピーター・パン』は女性であるウェンディにだけ母親の役割を押し付けてることで「女性=母」というジェンダーロールを植え付けていると批判されることもあります。このような批判点に関して、僕は「いや、この作品はそういう理由でウェンディに母親の役割を押し付けてるんじゃないやろ……」と思ってるので、あまり納得のいく批判ではないと思っています。ウェンディが母親役にされていることは、ウェンディが女性であるからというよりは、単にウェンディがこの作品の実質的主人公であり「大人へと成長するキャラ」だからでしょう。だから、ウェンディは他のキャラに比べると理性的な性格になっているのです。このことは、上の章ですでに述べた通りです。


音楽と映像

 ここまで、『ピーター・パン』について批判的な点ばかり書いてきましたが、もちろん個人的に良いと思った点もあります。それはやっぱり音楽と映像ですね。『ピーター・パン』もやっぱりミュージカル映画なのでたくさんの歌があります。特に有名なのは"You Can Fly!"でしょう。この曲に合わせて、ピーター・パンやウェンディたちがロンドンの街中を飛び回るシーンはこの映画で一番の名シーンだと思います。このシーンだけは僕も大好きです。曲に合わせて流れる夜のロンドンの映像もとてもエモくて素晴らしいです。

 他にも、"Following the Leader"なんかも曲自体は楽しくて好きです。まあ、その歌を楽しげに歌いながら喜々としてインディアン狩りするジョンとマイケルは嫌いなので、このシーン自体は好きじゃないんですが……。他にも"What Made the Red Man Red?"とか"The Elegant Captain Hook"とか曲自体は楽しいものが多いです。

 映像も夜の星空がかなり美しくて好きですね。先述したロンドンの夜景の絵も綺麗すぎて大好きです。ロンドンに行きたくなる映像です。感傷的な気分に浸れる絵です。


許容できない子供っぽさ

 と言う訳で、まとまりもなく『ピーター・パン』の感想をダラダラと書いてきましたが、結論としてやっぱり僕はこの映画があまり好きじゃない(むしろ嫌い)です。いや、ホントこの作品が好きな人の気持ちは理解できるんです。だって、「子供心を否定せずに大人への成長を描く」というテーマがめっちゃディズニーらしいんですもの。そりゃ僕もディズニー好きなのでそういうテーマ自体は大好きですよ。「たとえ大人に成長してもそれでも子供心はいつまでも抱き続けている」からこそ数々のディズニー作品に僕らは夢を見れるんでしょう。それは分かります。僕もそう言うテーマ大好きです。そういう意味でとてもディズニーらしいテーマを描いた『ピーター・パン』を高く評価する人の気持ちも十分理解できます。

 でも、やっぱり「この作品で肯定されてるような子供っぽさまでは肯定しちゃだめだよ」って気分になります。特にこの映画で肯定されている「子供らしい残虐さ」を僕はとてもじゃないけど肯定できるような気分になれません。ワニに食われるフック船長をケラケラ笑うピーター・パン、嫉妬に狂ってウェンディを殺そうとするティンカー・ベル、楽しみながら‟本気の”インディアン狩りをするジョンやマイケル……etc。こういう子供らしい冷酷さや残忍さには僕はドン引きしてしまうので、とてもじゃないけど彼らを好きになれないし、「子供らしくて素晴らしいなあ」とは全く思えません。

 いっそのこと、ウェンディがピーター・パンたちネバーランドの住人に本気で幻滅して、「やっぱりネバーランドなんて良くないところね。こんなのに憧れたなんてどうかしてたわ」みたいなこと言って大人になる決意をして終わった方が、まだ嫌悪感を抱かずに見れたかも知れません。しかし、本作品のウェンディは結局そうはならずに、終盤でネバーランドの思い出を楽しげに母に話します。

 もちろん、ウェンディが本気でピーター・パンたちを否定したら、ディズニーらしからぬ「子供心の否定」の物語になってしまいます。しかし、僕はたとえそうなっても良いからピーター・パンたちをウェンディには否定して欲しかったんですよね。そう思っちゃうぐらいには、ピーター・パンやティンカー・ベルたちに対して嫌悪感を強く抱いてしまったのです。こんな(悪い意味で)子供っぽい残忍なやつらを僕は肯定的に捉えられない。そう強く思った作品でした。







 以上で、『ピーター・パン』の感想記事を終わりにします。次回は『わんわん物語』の感想を書こうと思っています。ただ、ちょっとプライベートのほうが忙しくなってきたので、今後はブログの更新間隔が空くかもしれません。次回いつ更新できるかは未定ですが、とりあえずまだ続ける予定ではありますのでよろしくお願いします。

 それではまた。

*1:『ピーター・パン』以前だと、同じく第一期黄金期の作品である『シンデレラ』や『ふしぎの国のアリス』でもナイン・オールドメン全員が作画監督を務めていました。

*2:例えば、タイガー・リリーがフック船長に攫われた際に、ロストボーイズたちが犯人だと勘違いした酋長が彼らを火あぶりにしようとします。

*3:むしろわりと逆の考えの持ち主です。